尾花沢市丹生を「千本桜」に

生まれ育った地元を桜の名勝にすべく仲間と奮闘する記録&丸晃建設代表ブログ

みなさんこんにちは

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みなさんこんにちは

時が過ぎ去るのは早いものです。でも、若きし頃の記憶は以外と残っているものです。

金のたまご」とまではいかなかったが、忙しく猫の手も借りたい時代でした。

今は就職難の時代、ほんとうに先が見えない時代です。

でも、新しいものが生まれるのもこんな時代かもしれません。
   
     気まぐれにいろいろと書いています。

還暦を過ぎて、  2014ー5ー27                   

いつ頃からだろうか
酒を飲まずに寝た夜は短い時間で目をさますようになった。一時から三時だ
二度寝は時間がかかり起きてしまうのである。
起きたからと言って特別にやることなどない。布団の上にはキャスター付の机がおいてあり物が散乱している。
母も生前良く眠れないと安定剤を飲んでいた。こんなところまで親に似ていると気づき始めた。
妻と別々に寝るようになってから何年になったろうか
おやじが亡くなり、母が入院した頃だ。一階に誰も寝る者がいなくなったのがきっかけである。十年位なるかもしれない。寝ている部屋は親父が寝ていた三畳だ。
妻は狭いと言うのでのいっしょに寝ていない。
三畳で思いだすのがかぐや姫の「神田川」 「三畳一間の小さな下宿、、♪」詩とメロディがとても切なく、時代を思いだす。いい歌である。二十歳頃流行ったから四十年にもなる。
歳をとると良く昔を思い出すというが、小さい頃の記憶というのは部分的ではあるがだんだん鮮明になってくるような気がする。三つ子の魂百までか、

幼少の頃、
親父は初代で分家した。三百メートルくらい離れた本家の小屋に移り済んだ。母は本家にいた父に嫁いだ。母が父に早く分家するようせがんだようだ。
水も無く、道路も人がようやく通れる位しか無かったような気がする。
一番古い記憶、それは、「早く湯を沸かして、さんばを連れて来い」と言う声だ。
たぶん母の母親だったろう。二つ下の妹が生まれたのだ。大晦日から元日にかけての出来事だ。
いろりとランプのあかりぐらいしか記憶にない。

六畳くらいの部屋に秋になると、わらを敷き詰めDDТを振りまきノミ、シラミ等の虫除けをする。あの匂いは今でも覚えている。兄弟三人と父と母、五人があんかを中心に並んで寝る。
みんなあんかに足を寄せ寝るのだ。「あんまり足よごすど、あんかひっくりかえるぞ!」
母の声が今でも耳元に残る。
分家して一番困るのは水だったと思う。本家までの中間くらいに清水があり水汲みが子供の仕事である。
幾つの頃の記憶だろうか、母の実家に風呂をもらいにいき親父におぶさりマントですっぽりと頭からかぶされ家路に帰る。 
みつみつと雪を踏みしめる音、「ここはあそこの曲り角だ。あとはあそこを曲がると家に着く」と親父の背中で考えていた。当たるとひとりで喜んだものだ。

春になって農閑期に井戸掘りが始まった。二人くらい手伝いがいた。多分母の兄と父の兄だったと思う。
三脚を組みロープにバケツを付けて降ろしてやる。数日して何メートルくらい堀っただろうか、掘った井戸の底にいる父はかなり小さく見えた。
待望の水が我が家に来た。吸い上げポンプで水を汲むのが子供の仕事である。
台所に貯めた桶から風呂へ運ぶ。子供の仕事だ。俺は暗くなるまで遊びほろけていた記憶しかないから、たぶん姉が主にやっていたと思う。
鉄砲風呂にも満タンしなければならない。
いまでこそ蛇口をひねれば水は使い放題になったが。

秋にもノルマがあった。焚き付け用の杉葉の集めである。
六畳くらいの物置の屋根までいっぱいするのだ。なまけると怒られる
親父は怖い存在でしかなかった。いつも親父と顔を合わせないようにしていた。
私はイタズラ小僧で近所には色々と迷惑をかけていたようだ
小石をぶっつけ窓ガラスを割った家に母に連れられあやまりに行ったのを思いだす。何回も頭を下げ謝っている姿が今でも覚えている。
「ばがやろ!なにしったなや」母のくちぐせだった。

こんな事件があった。固雪の頃である。兄弟三人で金そりを持ち出し裏山に引っ張っていった。固雪の頃の遊びだ。
ブレーキがうまく効かず暴走、家に向かって突進していったのである。
鉄砲風呂の煙突の周りは雪が解け窪んでいた。そこにそりは落ちていった。
妹が頭から血を出して泣きわめいた。
今思えばあんな危ない遊びをよくしていたものだ。

冬でも外でよく遊んだ。今でいう猿の軍団のように幾つもの集団があった。「雪合戦」も時々やった。

冬になると親父たちが数人集まってきて藁仕事をする。
今は民芸品にしかならないものだが。たまに晴れた日、雪の野山に仕掛けられた罠に掛かるうさぎを、捕まえ料理して、どぶろくでの酒盛りをする。
今思えばいかに自然に生きていたか、電化製品一つない、車もない時代に不自由さま感じない時代だった。便利な時代になって初めて不自由と感じるようになったのではないのか? そんなふうに思えてきた。
隣にあって我が家にない、そんなことから不自由と思い始めた気がする。

姉は中学を過ぎると叔母に連れられ東京へ行った。
小さな体で、おかっぱ頭で黒ずんだ顔、今思えばかわいそうな歳頃だった。
東京の商店に住み込みで働いた。何度田舎を思い出し泣いたろうか。
長男、婿取り以下、ほとんど家を離れ都会へと出ていった時代である。

出稼ぎが始まった  便利な時代の幕開けてある。出稼ぎから帰る時、電化製品が増えていった。出稼ぎから帰る時、秋葉原電気店に寄ってくるのが恒例だった。
その頃から人は変わったのでは。競争社会の始まり? それまでは助け合い、協調する社会だったのでは。

今思えば便利さを手に入れた代償として心を失ったのでは、
物の大切さ 思いやり、兄弟愛、

失ったものは大きい。